国民的PSTDって

きっかけはアロマランプだった。
ウィルス騒ぎ以来、抗ウィルスにアロマを焚いておく習慣がついた。
けれど、最近のロウソクはすぐ燃え尽きてしまう。
ブツブツ言っていたら、器用な息子くんが「空きビン」と「麻なわ」と「なたね油」と「針金」でシンプルなランプを作ってくれた。

それをきっかけに災害時の話になった。
「3.11のこと覚えている?」と聞いた。
彼は小学一年生で、黄色い帽子をかぶったまま玄関に座っていた。
ほとんど覚えてない、と彼は言った。
車が揺れていたことと、みんなでトランプしたこと。
ああ、計画停電の時? と私は応じ…しばらくして何かが結びついた。
あの時、暗い中、ランタンの灯りを頼りに家族でトランプをした。

…この子にとって、災害時の備えは「一つの灯り」なんだな、と。

3.11が自然災害にとどまらず、国民的災害であることは間違いがない。
それは現在も進行中の災害だ。
あの時、多くの人と同じように私は必死だった。
SNSとは無縁だった私が、TW,FBを開設し、24時間情報を追った。
デマと真実のかぎわけ方も学んだ。
自分はどう生きるか、子どもたちに何を教えるかについて、考えた。
基本はたくましく生きていくことだが、中でも「大川小学校*の教訓」は
耳にタコができるくらい叩き込んだ。
いわく
「納得できないことに従うな。おかしいと思ったら、殴ってでも逃げろ」と。

*大川小学校:石巻市釜谷地区の北上川河口から約4㌔の川沿いに位置する。東日本大震災で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明。

是非はあるだろう。
おかげで息子くんは、休校中もテーマ学習と称して里山を探検する日々だ。
(いや、ほんとにテーマ学習なんだよ、と息子くん)

コロナウィルスは多くの人にとって致死的なウィルスではないことが徐々に明らかになってきた。今、人々を苦しめているのは、デマや買い占めに代表される不安・恐れ。

私は3.11の後、悔しくて悔しくて、号泣した。
その懐で子どもたちを育ててきた大好きな自然が、放射能で汚染され、泥遊びをすることも、枯葉を燃やすことも、危険だとわかったからだ。

ひるがえってコロナウィルスでは、自然は何の痛手も受けてはいない。
むしろ、中国の経済活動が停滞したおかげで、大気汚染が解消されたくらい。
山も、海も、美しい季節。日1日と姿を変えて咲き誇る花々。
屋外での感染の機会はかなり低いことから考えても、自然の懐に抱かれることは免疫力をアップするから、どんどん外に出よう。太陽の下でほほえもう。

だが、実はこの文章のテーマはそれではない。

問題は、各自が3.11から何を学んだか、にある。

あの時から、多くの人が生き方を変えた。お金や政治のあり方にも、見直しの動きが起きた。

だが、一方で自分の力で真実を知ろうとせず、放射能が残り続けることも、健康に与える被害も無視して、怠惰な夢の中で生きてきた人もいる。

ごめん、言葉キツイかもだけど、相変わらず情報コントロールに弱くて、敵を見つけて攻撃することに快感を覚え、憂さ晴らしをしている人のこと。

あるいは同じ夢ばかり見続けて、やってくるものだけを期待して、甘い言葉にすがろうとする人のこと。

それも選択の結果だから? 

ああ、結構。

でも、さようなら。

そして、認めよう、私たちは多かれ少なかれ3.11の国民的PSTD*に罹っていると。    
 *PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)

もちろん、私も。

チェックしてみよう。あの時と同じに行動していないか?
例えば「疎開」、例えば「買占め」、例えば「引きこもり」。

「疎開」に関していえば、明らかに汚染度に差があった3.11と比べ、今は全国どこに行ってもかかる可能性はある。
実際、郷里の母に羅漢させることを恐れていたら、地元の方で一足先に感染者が出た。

「買占め」には差がある。
ドラッグストアや大型店舗と、地元資本の小さい店や生協系列を比べてみるといい。「買占め」をしている客層、情報に踊らされているのがどの層なのか、わかるはずだ。
買占めたくなったら、応援したい大好きなお店に行って、思う存分買占めて。

「引きこもり」は感染のリスクを下げるかもしれないが、精神的な鬱や、免疫力の低下、それにSNSだけに頼った情報収拾へと追い込まれていく可能性が高い。

私たちの直面しているパンディミックは、予想もしない形で社会を変える。

が、これは一面チャンスでもある。社会について学び、その思いも掛けない関連を理解することから、次の行動を決めていく。

新しい職種、新しい人間関係、新しい生き方。
誰と手を取り合っていくか。誰を助けることができるか。

今、試されているのは「想像力」だと、私は思う。

いつかは誰でも死ぬ。
だから、恐れるべきは「死」ではない。
私は「生きないこと」こそを恐れている。

いま、できることを。

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